教えのやさしい解説

大白法 561号
 
大慈悲為室(だいじひいしつ)
  「大慈悲為室」とは、法華経の『法師品(ほっしほん)第十』に説かれた経文で、「大慈悲を室と為(な)す」と読みます。「衣座室(えざしつ)の三軌(さんき)」の一つです。
 前回までに解説してきたように、衣座室の三軌のはじめの「如来の衣(ころも)」は、「柔和忍辱(にゅうわにんにく)の衣」であり、柔和忍辱の鎧(よろい)を着て折伏することをいいます。次の「如来の座」は、「諸法空(しょほうくう)を座と為す」ことであり、不惜身命(ふしゃくしんみょう)の精神をもって折伏することをいいます。そして最後の「如来の室」は、今回の「大慈悲を室と為す」ことであり、仏の滅後において法華経を弘通する者は、慈悲の心に住して折伏すべきことをいいます。

 仏法から見た慈悲の意味
 「大慈悲為室」の「慈悲」とは、「なさけ」あるいは「あわれみ」「いつくしみ」といった意味を表する言葉として、一般的に使われています。
 ところが、仏法でいう「慈悲」には、一般に理解されているような浅いものではなく、より深く広い意味があります。つまり、親が我が子に対し、あるときは温かく、またあるときは厳しく叱(しか)って、子供を幸せに導きます。親であれば我が子の成長と幸福を願うでしょうし、たとえ子供に裏切られようとも、親は辛抱(しんぼう)強く包容し、忍耐強く諭(さと)し、良い方向へ導こうとします。
 このように「慈悲」とは、親が子を導くがごとく、あるときは包容をもって、またあるときは厳格な心をもって、一切衆生を真の幸福(即身成仏)へと導かんとする仏の広大な御心と救済のお振る舞いをいうのです。

 日蓮大聖人の大慈大悲の御化導
 『開目抄』に、
 「されば日蓮が法華経の智解(ちげ)は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」(御書 五四〇n)
また同抄に、
 「仏語むなしからざれば三類の怨敵(おんてき)すでに国中に充満せり。金言(きんげん)のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なし。いかんがせんいかんがせん。抑(そもそも)、たれやの人か衆俗に悪口罵詈(めり)せらるゝ。誰の僧か刀杖(とうじょう)を加へらるゝ。誰の僧をか法華経のゆへに公家・武家に奏する。誰の僧か数々見擯出(さくさくけんひずい)と度々ながさるゝ。日蓮より外に日本国に取り出ださんとするに人なし。日蓮は法華経の行者にあらず、天これをすて給ふゆへに。誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん」(同 五七〇n)
とあります。
 日蓮大聖人は末法濁悪(まっぽうじょくあく)の世にあって、私たちと同じ人界の凡夫として出現され、「大難四箇度、小難数知れず」の迫害を忍ばれ、三障四魔を打ち破って、御自身が法華経の行者であることを示されました。そして、文永八(一二七一)年には、竜の口において凡身の迹(しゃく)を払って御本仏の御境界を顕本(けんぽん)されました。
 また『諌暁八幡抄』に、
 「今(いま)日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月廿八日より、今弘安三年戊辰(太歳)十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此(これ)即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」(同 一五三九n)
とあり、まに『御義口伝』に、
 「大悲とは母の子を思ふ慈悲の如し。今日蓮等の慈悲なり。章安の云はく『彼が為に悪を除くは即ち是(これ)彼が親なり』と」(同 一七三三n)
とあるように、大聖人はその御一代の御化導において、常に慈悲をもって悪の根源たる邪宗謗法を呵責(かしゃく)し、唯一の成仏得道の本種である南無妙法蓮華経をもって下種折伏されました。すなわち、謗法に対して敢然(かんぜん)とその邪義を打ち破って、正法を立てる大聖人の折伏行こそ大慈大悲のお振る舞いなのです。

 大慈悲行の折伏を実践しよう
 そこで大切なことがあります。それは、このような御本仏の大慈大悲は、実は私たちが即身成仏を遂(と)げるためのお手本であり、道筋であると拝さなければならない、ということです。御本仏大聖人の忍難弘教と発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)の大慈大悲のお振る舞いを自己の信心修行の鑑(かがみ)と拝し、そして万分が一でもその御報恩の折伏を実践していくことが大切なのです。
 したがって、私たちは、謗法の害毒によって苦しんでいる人々に、その苦の原因が邪宗教にあることを指摘し、破折し、正法正義に導くための慈悲の折伏を実践していくことが肝要です。
 この慈悲行は唱題の功徳をもって源とします。すなわち『御義口伝』に、
 「今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は此の三軌を一念に成就するなり」
(同 一七五〇n)
と説かれているように、南無妙法蓮華経と唱える信心の一念に、「大慈悲」のみならず、「柔和忍辱」と「不惜身命」の精神と実践が成就されるのですから、唱題と折伏は一体でなければならないのです。
 御法主日顕上人猊下は、
 「『一年に一人が一人乃至以上の折伏を』という標示は、僧俗の覚悟であり目的観である。この折伏成就のために最も大切なことは唱題行であり、いわゆる崇高な折伏という目的を持った唱題こそ、強い生命の力をもってすべての生活の案件がおのずから開け、調(ととの)う功徳を生ずるのである。正しい目的観を持った唱題、これこそ大仏法前進の鍵であり、心の福智二徳、身の荘厳と健康を限りなく顕現する最高・最上の生活法である」(大日蓮 六四七号)
と仰せです。
 平成十四年・宗旨建立七百五十年の法華講三十万総登山まで、いよいよ一年余りとなりました。私たちは、御法主日顕上人猊下の御指南のまま、折伏という目的に向かって唱題を重ねて大慈悲室に居し、本年の「折伏実行の年」を見事飾ろうではありませんか。